神輿の歴史は八代将軍吉宗の時代、享保十七年当時敬神の念にあつい仲通りの豪士・元酒井氏の家臣であった小安弾正忠氏が江戸へ参った折に浅草で神輿を買い受け、当時田間村の名主役を勤めていた新町の田辺外記(田辺家も元酒井の家臣)に引取りの手筈を頼むとの連絡をし、知らせを受けた当地では早速屈強の若者数十人を選び、江戸へ急行させ、昼夜兼行にて担ぐという荒業をやってのけ、第六天王様に無事奉納したとのことです。
 この人達が禰宜の祖先であり、それ以来禰宜は代々世襲しています。
田間神社の神幸祭(神輿渡御)は10月初旬に、日吉神社祭礼と交互の隔年行われておりますが、これは、寛文十一年より東金、田間、二又を合せ、三千石の領主が同一人であったため、毎年の祭事では費用の面での問題か出るため隔年としたものと思われます。
 昔の神輿の渡御は二日間にわたり、神社を出発し仲通りの小安家の庭内に入り、小安家に敬意を示したのち、峯下、田間新田、小井戸(元公平村松之郷で、昭和二十八年東金町と合併し、田間神社の祭事に参加するようになった)を通り、神輿はこれより柴田道(十文字川と並ぶ道)を下り、砂押春日神社に休憩し、今の砂押県道を上り峯下の御仮屋に滞在しました。
 この御仮屋で一夜を明かし、翌日に出発した神輿は田中、仲通り、宮ノ下、白打の各部の社前で休止しながら新町に着き、これより神輿は新宿へと村境を越え、千葉銀行前にて引返し、菅原神社にて大休止をするのですが、神輿が村境を越え東金まで行った理由は、領主が同一人で、上宿の火正神社の神輿が砂押の降り口まで行ったことと同じと思われます。
 菅原神社を夜の八時頃出発し、高張提灯や警固の方々の手提灯に守られ、道の両側には四、五間の間隔に立てられた提灯立の御神灯に火が入り十時頃には還御になりましたが、当時の田間神社の石段は伊豆の小松石を使っており段数が多く、幅四尺程度の石段でつかれ切った禰宜は一段一段、登り切るには大変なことでした。
 なお、この当時の祭には、各部落ごとそれぞれの催し物があり、このような神輿の二日の渡御の祭事は、昭和の始め頃まで続き、そのうち小安家、新町の田辺家の庭内に神輿が入る事は不敬であると取止めとなり、昭和十年九月一日新町の更進会々長戸村信氏ほか十九名は皇太子殿下御降誕の奉祝記念に子供神輿を(行徳の後藤神輿店)当時三百五十円にて買い受け、菅原神社に奉納しました。
 その後まもなく、満州事変から第二次世界大戦まで物資不足と経費節約のため休祭が続き、昭和三十四年、一日だけの渡御の祭りが行われました。
 それ以後、国道の交通事情のため、神輿の渡御は出来なく成りましたが、昭和四十六年東金バイパスの開通により、昭和四十八年度の祭事から神輿の渡御が再開されました。
 また、神輿を担ぐ禰宜(ネギ)という役が代々同じ家に引き継がれているのが特徴です。

田間神社 神輿
                  神輿